江戸時代末期、水から村と田畑を守るため本町西野の村人が主体となって山の掘り貫き工事を行い、排水トンネル「西野水道」を完成させた。5年余の大事業で、完工は弘化2年(1845)秋のことである。これは単なる水利事業としてだけではなく、幕藩体制下における民間主導の事業として、民衆史上高く評価され広く注目を集めつつある。
滋賀県指定文化財「史跡西野水道」は、購ケ岳山系が南へ延びた西野の西山という場所から、琵琶湖に向って山腹をくり貫いた排水用の岩穴(トンネル)である。高さ1.5~3m、幅1~1.5m、長さ約220m。東側の入口は、山腹をコの字に削平してつくられ、両側に河原石を-積んだ水路が約30mほど伸びている。
入口から5m、10mと奥へ進むごとに、闇は濃くなり冷気を肌に感じる。懐中電灯で内部の岩肌を照らすと、枯板岩の岩盤が黒や茶色に光り、石目に沿って滑らかに削られた所や、細かいノミの痕が鮮やかに残る所などがある。さらに奥へ進むと砂岩の層があり、岩に小さな亀裂もある。天井は見上げるほど高い所があるかと思うと、注意しないと額を打つような低い所もある。
西野水道琵琶湖側
石川県から招いた石工のグループは初め山の西側から掘り進んだ。1年半で約36m掘り進んだが、だんだん岩盤が堅くなり、東側から掘るように計画を変更する。
西野水道東側
西側から掘り始め、堅い岩盤に当たり、東側から掘り進めるが、こちらも約20m掘り進んだところで堅い岩盤に突き当たり、1日に6cmくらいしか掘り進めず、石工たちは、「もうこれ以上は自分たちでは手の施しようがない。」と能登へ帰ってしまう。
丸天井と角天井
中程より西側は丸天井であるのに対し、東側は角天井となっている。石工による堀方の違いがみられる。石川県から招いた石工が帰った後、三重県から石工を招き、掘り進める。
1840年7月29日に着工し、5年後の1845年9月1日に完成する。
落盤を防ぐ
東の入り口付近には落盤を防ぐための石材が見える。初めは木を使って落盤を防いだようであるが、落盤が激しいために、石材に変えた。
トンネルの水平断面
水路はまっすぐでなく、折れ曲がったり、上下の高低差もある。天井の高さも、大人が腰をかがめないと通れないぐらい低いところや、4mぐらいの高さの所もある。一旦掘った後掘り直したために高くなったようであるが、苦労を重ねてできあがった様子がうかがえる。
トンネル内の地質
トンネル内は、粘板岩が主体となっているが、チャートも粘板岩層に混在する。
一般に、粘板岩は石の目に沿って剥ぎやすい。また、地表近くの粘板岩は割れ目が多いが、内部へいくほど密着度が高く、強度を増す。一方チャートは、きめが細かく極めて硬い。